Gewalt 9
Gewalt 8から続きます。
●作品に隠された意図
高い防食性があり建築材料としての使用も増えている。熱反射性から産業機械や電気器具
などへも使用される鋼板(ごうばん)。戦後〜現在の過渡期に開発された素材です。
その素材をキャンバスに選んだこと。利便性や合理性を追求した結果、様々なものを失い
犠牲にしてきた、まるで「暴力的」とも言える社会の上に描くという彼の新しい表現。
そこにはK.Fukuchi氏の一貫して変わらぬ意図、間接的ではありますが、
確かにGewalt(暴力)が存在しているような気がします。
初期の鋼板シリーズには自然、工業製品、ダイヤモンド(お金)・・そして醜くも映る仮面?
等が描かれています。
一見気が付かないかもしれませんが、リアル過ぎる表現とも言えるかもしれません。
あくまで私の主観的な考えです。これまでご紹介した作品の変遷をご覧いただいて
それぞれの感じ方をしていただければと思います。
●色から生じる形の変化
私の場合作品を見る時に「全体が一度に目に飛び込む作品」を意識しています。
つまり構図が第一だと考えます。表現できる規定(大きさ)の中で最大限の
ダイナミズムを感じるからです。
その上で、色や形が浮かび上がる。そんな作品が好きです。
比べてみると一目瞭然ですが、インドより帰国後の彼の作品にはいろんな色やトーンが
現れます。まるで何かの縛りから解き放たれたかのように「自由」な色の試行がなされています。
また形は無駄な部分を取り除いたかのようにより記号的になりますが、この背景には
色の変化があるような気がします。言い換えれば自由な色の表現が必然的に形を記号に
変えたのかもしれません。
さらに言えば鋼板のキャンバスが技法を規定し、その相関によって必然的な作品を
製作したとも言えます。
そのベース(キャンバス)には鋼板という現実社会が間違いなく存在しています。
これまた勝手な解釈です。
●ヒンディー語
そして現れる「ヒンディー語」、以前の記事Gewalt 6でご紹介したように、作家が体験した
インドでの日常は強烈なインパクトとなって残っているのかもしれません。
模様のように自然とそこに描かれた文字かもしれません。
もしくは作家自身の唯一の「抵抗」なのかもしれません。
結局は刻々と進化する社会、そこで生きている現実、インドではなく日本という社会に
生きるという現実と本人の求める表現との間になにかしらの矛盾があったのかもしれません。
●オリジナルの存在感
すべての作品はオリジナルで、一点しか存在しません。
でもそこにPOPART的なイメージを持たせています。つまり大量生産のイメージです。
この部分、実は避けて通りたいのがアーティストではないでしょうか?
なぜならそこにはリスクがあるからです。
捉え方によってはまるで連続する(工業製品的な)完成度があるからです。
その為、オリジナル(本物)をアピールするには向いていません。
ウォーホル的に言えば商用アートであり、色んな媒体に展開されてこその価値があるの
でしょうが、画家としての括りの中では勇気のいる表現方法だと思います。
実際私は彼の作品のいくつかをすでに色んなものに展開させています。
なぜなら、かれの真意を考え、あえてそのプロジェクトに私の方が乗っかったからです。
アートとは漠然と魂のこもった生々しいものでないといけない・・といったイメージが
あるのではないでしょうか?
あえて大量生産的な表現を一種のリスクを負って製作した。またはそれにたどり着いた。
じつは非常に生々しい表現であるように思います。
展開されてさらなるオリジナル性を増す。これが本当の表現かもしれません。
実際、本物をみるとその筆の跡にこれが確かにオリジナルなことが分かります。
大量消費・大量生産の社会にあって、まるでそれ自体がその一部である
かのような表現をすることにより、基本的な理念をより強烈に提示している。
そして素材、形、色・・すべてが初期の「Gewaltシリーズ」の延長線上にある。
決して表面的なもののみではない、変遷によって辿り着いたそんな作品かもしれません。
「人間の欲望は争いを招くが人間の欲望がなければ進化はありえず、滅んでしまう」
そんな矛盾がさりげなく表現されていて、自由な色の表現はありますが
何処か無機質な雰囲気の作品です。
今回も感じたことを書いていますが、真意はK.Fukuchi氏にしか分かりません!
このシリーズさらに続きます。お楽しみに!!
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